校歌

大阪府立夕陽丘高等女学校 校歌


大阪府立夕陽丘高等女学校校歌

 明治39年(1906年)に誕生した「島之内高等女学校」が、新築・移転に伴い校名を「夕陽丘高等女学校」と改称したのが明治42年。その年の2月18日、校歌を「我等をかりにあとふれば」から「霞も匂ふ夕陽丘」に改定。ここに旧制校歌は制定された。
 初代音楽担当の井村春代教諭が選んだ「西洋の古名曲」に、当時の教頭格の前田純孝教諭が作詞したとされるが、具体的な曲名は記されていない。前田先生の「雑筆」と題された唱歌稿に「霞も匂ふ」に始まる歌詞が載り、その冒頭にW.winterとあるのが原曲の作者であろうとされる。
 前田純孝先生は、御影師範から東京高師に進学、御影時代の恩師で夕陽丘の初代校長伊賀駒吉郎先生に請われ、卒業と同時に国語担当の主任教諭として着任された。翠渓と号し、音楽のできる明星派歌人として、「東の啄木、西の翠渓」と並び称されるも、校歌作詞後間もなく過労に倒れ、志半ば31歳の短い生涯を終えられた。

大阪府立夕陽丘高等学校 校歌


大阪府立夕陽丘高等学校校歌(斉唱・ピアノ伴奏)

 夕陽丘が高等女学校から新制高等学校に生まれ変わったのは昭和23年。その6年後の昭和29年、新制校歌が制定された。
 歌詞は、在校生が応募した21編の中から選ばれた優秀作6編をもとに、改めて当時大阪を代表する詩人であった小野十三郎氏(旧制天王寺中学23期)に決定稿の作詞を依頼した。
 作曲は、昭和6年に東京音楽学校卒業と同時に夕陽丘高女に赴任され、激動の戦前戦後、大阪教育大学に栄転される昭和28年まで、夕陽丘で音楽科教諭として在職された加藤直四郎先生。
 「曲調は前半を『ファ』と『シ』を抜かした日本調とし、後半は洋式で跳躍的リズムを加えた。特に意識したのは、『しづかなり』 は P(ピアノ・弱く)で、『白亜の学び舎』 は、学問の殿堂、深々とした深さをイメージし、『新しき世代をせおひて』 は、全身跳躍的に歌って欲しい。」との作曲者の思いがこめられる。
 美しい気品あふれる旋律と、学び舎、友、心のふるさととしての母校を歌い上げた歌詞は、現役生徒ばかりではなく、それ以上に熱い思いを抱く卒業生によって今も歌い継がれている。

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